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2004年9月 1日 (水)

故郷へのバーチャル紀行

新撰組と土方歳三終焉の地、函館、そして永倉新八の没した小樽。
 いまNHK大河ドラマ『新選組』が放映中です。近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨等近年特に若い女性に人気の高い歴史上の人物にふさわしい配役で、ドラマは今後半に入ったところです。
どの書店をのぞいても、ここに掲げた書名の本が幾十作品も平積されていて人気や関心の高さが伺えます。ドラマの視聴率はどうなのかなど興味深い。そしてドラマは近藤勇が処刑されるあたりで終わるらしい、今、クーデターの舞台となった京都は新撰組の活躍した史跡などに観光スポットが当てられている、さらに近藤、土方、沖田などの出身地多摩に残る資料館、史跡をおとずれる人が多いなどと聞きます。

近藤勇の墓
近藤勇が房州流山で政府軍に捕らえられ板橋宿で斬首刑になったのは慶応4年(1868)4月。
刑場に埋められた勇の遺骸を娘婿が生家の菩提寺、多摩・現三鷹市大沢・竜源寺に移し埋葬したという。
刑後埋葬されたゆかりの地、現在の北区滝野川寿徳寺に明治9年(1876)5月、新撰組慰霊碑が建てられたという。墓碑正面に近藤勇宜昌、土方歳三義豊之墓と刻まれ、両側面には110名の隊士の名が刻まれて永倉新八により建立されたといわれている。
また、この地に永倉新八の遺言により遺骨の一部と遺髪を納めた永倉新八の墓碑が昭和4年(1929)4月腱てられている。
土方歳三の最期
新撰組、土方歳三は流山で近藤勇と訣別し宇都宮、会津と転戦、東北戦線に合流した。会津藩、庄内藩、仙台藩などが政府軍に降伏して東北戦線が終わる。新撰組、土方歳三と仙台藩などから逃走した残党は榎本艦隊が仙台で収容し蝦夷地に向かい戦線は蝦夷・箱館に移る。
土方歳三はこのとき旧幕軍の陸軍奉行並であった。箱館戦争決戦の前線指揮のさなか、現函館市若松町、一本木関門で政府軍の一斉射撃をうけ、腹部貫通銃創で落馬。部下相馬主計らが近くの民家に収容したが黄昏迫るころ出血多量で35歳の生涯を閉じた。
今は、この最期の地に「土方歳三最期之地」の石碑が建てられ、今なお花、線香が供えられ絶えることがないという。
土方歳三の墓「旧幕府」三巻八号という史料によれば明治38年開かれた幕臣伊庭三郎を偲ぶ会で、土方歳三の墓は五稜郭に建てられたとの証言があったとの記載があるという。
明治11年(1878) 五稜郭でおびただしい数の遺骨が発見され、さらに別の地に移葬したとの記事が明治16年10月13日付函館新聞に掲載されたという。移葬されたのがどこか、土方の遺骨があったのか触れられていない。遺骨と墓は現在発見されていないという。
永倉新八が明治9年建立した寿徳寺の土方、近藤の墓には遺骨は納められていないのだろうか。
また、緒古文書を解説しているホームページを見ると上掲を含めた諸説があり、興味が尽きない。

ほか、箱館戦争関連観光名所
戊辰の役、最後の攻防の拠点「五稜郭」は星型洋式城郭として知られる。戦後この近くに五稜郭タワーなる展望博物館ができ五稜郭を一望できる。館内の展示やショップでは土方歳三が人気を集め、人気キャラクターとなっているそうだ。
土方歳三函館記念館・・・土方・啄木浪漫館のこと。函館市日出町:空港近く。
碧血碑・・・箱館戦争で死んだ旧幕軍約800名を祀る霊所である。観光案内には
      土方歳三も葬られていると書かれている。
      建立にまつわるエピソードはここでは省きます。

永倉新八
「浪士文久報告記事」、談話集「新撰組顛末記」を残した。
松前藩江戸定府取次役の家の次男として生まれた。鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻った後土方、近藤と訣別後戊辰の役東北戦線を闘い、のち江戸に戻る。松前藩への帰藩が許され明治15年北海道樺戸集治監剣術師範に招聘された。19年までその職にあった。
大正2年3月17日より6月11日まで70回にわたり小樽新聞に「永倉新八」を連載した。
大正4年1月5日、小樽にて病没。享年77歳。
小樽市入船に菩提寺量徳寺がある。今年8月8日石碑が建立され、除幕式、記念講演が行われ、また、小樽を愛した永倉新八にちなむイベントがおこなわれた。

維新後の北海道開拓の一挿話・・・札幌市の桑園碑の由来
明治8年(1875)北海道開拓使黒田清隆長官が当時の元鶴岡(庄内)藩士を招いて屯田兵に養蚕をすすめるため大木の茂る荒地、湿地が広がる現札幌市中心部21万坪を開墾、桑畑にした。
庄内藩士は酒田から海路函館に着き、一部は函館・大野の開墾に向かい、残り158名は小樽に着いた。銭箱で黒田長官の出迎えを受け、一行は隊旗をかかげて札幌まで歩いた。
短期間での開墾には大変な労苦があったそうだ。100日あまりで大きな成果をあげ感謝状を
受け送別会を開いてもらい、西洋農具、洋牛2頭のお土産をもらって郷里に帰った。これよりこの地を酒田桑園と呼ぶようになった。
酒田県(現山形県)、福島、群馬から桑の苗を買い、植えた。その後も苦難があったが、48万坪に広げた。
明治45年(1912年) 桑園の作られた歴史を石碑に刻んだ。札幌農学校校長を務めた森源三氏が最初庄内藩士宿舎跡に大きな柱に桑園の記録をしていたが朽ちたので、氏の長男が石碑に立て替えたものである。
平成元年からこの碑の前で「桑園開拓祭」が開かれ、桑園小学校6年生の代表が碑の裏に書かれている陰文を朗読するそうである。
この陰文は札幌市桑園地区のホームページ ( http://www.sooen.com/ )に、上記の詳細を含めて、掲載されている。


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